レンタカーを呼び出そう!

日産でもしきりに「変わろう、変えよう」と叫び、もがき苦しんでいる姿があった。
トップが声を曖らし、先頭に立って「変革の旗」を振った時期もある。
九八年五月には事業再構築の柱となる五つの項目(①車種の削減②車台を三分の一に削減③有利子負債の半減④米国事業の見直し⑤販売チャネルの統合)を取り上げ、「日産構造改革」と銘うって天下に公表したりもした。
あるいはプロ野球の世界的な選手であるイチローの口を借り、コマーシャルの中でさかんに「変わらなくっちゃ……」と流したものである。
しかし人間の性格が変わりにくいのと同じように、企業にとってもおいそれと変革が実現するものではない。
結局、日産は口で言うだけで自分たちの力では変わることができなかった。
どことは言わないが、ほかにも日産の二の舞を演じている企業が多数ある。
なぜ変われないのか。
それは内部に自らを破壊するだけの決断力と実行力を持つ人間がいないからだ。
自ら変わろうと言っておきながら、その方策の内容をみると中途半端であり、まるで重病人に膏薬をはって治そうとしているかのような改革案しかでてこないのが大方の実態である。
日産の場合も同様で、五項目を柱とした「日産構造改革」は、会社固有の既成秩序や風上までを破壊できるほどのマグマを噴き出す力はなかった。
古い秩序や組織をいったん破壊しようとするなら、リーダーは死ぬ覚悟が必要だ。
ものすごい子不ルギーとスピードが求められる。
タラタラと取り組んでいたら、途中で必ず逆風にあおられることになる。
逆風を吹かすのは身内にいる反対勢力の反撃である。
守旧派は破壊することはもちろん、再生することさえ嫌う。
変化することに臆病であり、なんとかして改革案を骨抜きにするか、さもなくば揉み潰してしまおうとする。
守旧派勢力はどの企業にも存在する。
長いあいた自分の体温に合った湯につかっていると、温度差がある別の湯ぶねには入りたくなくなる。
「これまでのやり方で今日までやってこられたではないか。
それのどこがいけない!」そう言ってはばからないのである。
とくに秀才型の人たちに多く見られるのは、キャリア漬けになることと自己のハイポテンシャルに過信を抱くことだ。
だからピンチにも不感症になる。
リスクを冒してまでピンチをチャンスに変えようなどという挑戦意欲はさらさらない。
そういう勢力が主流を占めたら企業がどうなるかは自明の理である。
職場には無力感が蔓延し、無責任体質が生まれてくる。
会社全体が仕事の結果に後悔もしなければ反省もしなくなる。
そりゃそうなるに決まっている。
上が責任をとらないのであるから、当然のこととして下に対しても責任は問えない。
そういう会社を見つけ出すのに苦労はいらない。
日産の場合もこのような状況を三十年以上も続けたことになる。
一九七〇年、国内市場における日産車の販売登録シェアは三二・六%であった。
同じ年のトヨタの実績三九%には及ばないものの、三位のマツダは九・八%にとどまっている。
「自動車業界は一位と二位が断トツで、三、四位がなくて位以下はみんなドングリ」まわりからそう郷楡されるくらいトヨタと日産の両雄は、その他大勢とはかけ離れた実力を誇っていた。
ところがその後三十年以上、現在にいたるまで日産車の凋落はずっと続いている。
その間に同社では六人のトップが交代している。
しかし六人の中に業績不振を理由として辞めた社長はI人もいない。
そこに和製経営の典型といわれた企業の脆さと生ぬるさが垣間見えてくる。
それを見ていると、ぬるま湯も冷えてきて寒いだろうに、なんと我慢強い会社なんだと、はた目にはそう映った。
それでもゆっくり動くエスカレーターに、前もってわかっている人物が順送りで乗せられていく。
そして乗り遅れたその他大勢がうしろで一列横並びとなる。
順送り横並び方式である。
そういう人事は少なくとも三十年前には終わらせておくべきであった。
おそらく途中のかなり早い時期に気付いた人も多かったものと思われる。
しかし、わかっていても手をつけられないのが「口先だけの改革」である。
同じ遺伝子を持つ人間の集団が、断ち切ることのできないしがらみの中で生きているだけに、口で言うほど簡単なことではない。
「中にいる我々には、何をどうすればいいのか、それすらわからなくなっていた」ルノーから破壊者とも言われたほどの若手経営者カルロスーゴーンを招いたとき、社長の塙義一がいみじくも述懐している。
ぬるま湯も、あまり長くつかり過ぎると判断力が鈍ってくるという、正直な気持ちの表れだと読みとれよう。
その日産が大変貌を遂げつつある。
先ごろ小泉総理はゴーンと面談した際、しきりに改革のコツにふれて質問したという。
日産は改革を急ぎたい多くの企業にとっても学習の対象になるが、今や日本という国を変革させるための教材にもなっているのだ。
ただし国と企業とが異なる点は、小泉総理が駄目だとなっても外国籍の人物を総理に当てはめるわけにはいかないことだ。
強大な本社に権力だけが目立ち、職場に無気力なムードが漂うとどうなるか。
中でもいけないのが「みんなで渡れば怖くない」と、危機感を持たない集団が形成されることである。
本社は小さいに過ぎることはない。
しかし多くの企業は、もっと困った事態に悩まされているのである。
それが「隣りは何をする人ぞ」というセクショナリズムである。
これを退治するのは並大抵のことではない。
「セクショナリズムが生まれない仕組みを作ればいいのだ。
例えば、思いきって事業部制にしてみたらよい。
要はトップに決断力と実行力があるかどうかの問題だ」評論家ふうに言えばこのような意見がないわけではない。
商品・業種を部門別に分け、技術研究開発、生産、販売、つまり技・製・販を一つの事業部に束ねてしまえば、厄介なセクショナリズムも柔らぐはずだというわけだ。
すでにその効果を狙って多くの企業が事業部制の導入を実施している。
しかし、それによってはたしてセクショナリズムが解消されたのかというと、現実は思惑が大きく外れ、必ずしも期待どおりにはなっていないのである。
たしかに全社的な観点から見れば、事業部制は「みんなで渡れば怖くない」というもたれ合いの考え方が薄らぐかもしれない。
しかし反面、各事業部間には「隣りは何をする人ぞ」と、従前よりさらに厚い壁が立ちはだかることになる。
ひいてはそれが、全社共通のベクトルを見失う原因になるという危険性があることも否定できない。
そう考えていくと、セクショナリズムというのは口で言う何倍も厄介な企業病である。
しかも悪いことに、この病気は慢性化するのに加え、完全治癒する薬が見つかりにくい。
過去もそうであったが、これから将来も、組織の集合体として動く企業にとっては永遠の悩みであり、頭の痛いテーマである。
放置しておくと症状がだんだんひどくなり、いわゆる大企業病の主な原因の一つになる。
日本は元来、個人主義に基づいた各人の競争よりも、和と協調に重きをおぐ。
その傾向はとくに企業社会で強く、集団主義からなる組織が一つのムラ社会のようになる。
そこにムラとムラのあいたに侵すべがらざる境界線ができてしまう理由がある。
個人には「協調性があるかどうか」という項目が人事評価の重点項目になっている。
それにしては部門間、部署間における課題の共有とか協調性についてはあまり目が向けられない。

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